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前回のるろうに剣心から時代はさかのぼり室町時代の蝦夷地が舞台です。今回はコシャマインの戦いを取り上げます。

コシャマインの戦いとは?

山川出版の『日本史B 用語集』によるとコシャマインの戦いについて

"1457年、アイヌの大首長コシャマインが和人の進出に対して起こした最初の大規模な蜂起。蠣崎氏が鎮圧した"

と書いてある。
コシャマインの戦いといえばアイヌの3大蜂起の最初の戦いとされている。
コシャマインの戦いよりもシャクシャインの戦いのほうが知っている人も多いと思うが、シャクシャインの戦いが起きるのはコシャマインの戦いから212年後である。
なぜこういった戦いが起きたのか。

原因、戦いの経過


しかく事の発端はアイヌの少年と和人の職人によるトラブル

『新羅之記録』によると
康正二年(1456)春に函館の志濃里の鍛冶屋村にオツカイというアイヌの少年が和人の職人に小刀を作らせたが、小刀の出来ばえ、値段をめぐった争いが起きた。争いの末、職人はオツカイを刺殺してしまう事件に発展する。
この事件をきっかけに道南のアイヌが激高して一斉に蜂起した。

多くの和人を襲ったが、驚くのが範囲の広さである。
東は鵡川、西は余市までと広範囲にわたる。

もし、これが事実であれば当時、和人は鵡川、余市にこの頃すでに住んでいたということになる。

◽︎コシャマイン挙兵

 翌年5月14日 渡島東部のアイヌ首長コシャマインが挙兵。それによりさらにアイヌの勢いが増した。
松前と函館方面が標的になり道南十二館のうち志濃里館、中野館、脇本館、隠内館、覃部館、大館、袮保田館、原口館、比石館が攻撃を受け、残ったのは茂別館、花沢館の2つだけだった。

いよいよ窮地に立たされた和人たちであったが、これを救ったのが花沢館の蠣崎氏の客将だった武田信広である。

武田信広の巧みな戦略でコシャマインは討ち取られる。敗走した和人を再び集め北斗市の七重浜でコシャマインを迎えとったという。

みごとアイヌとの戦いに勝利した武田信広は花沢館主の蠣崎季繁の養女の婿に家督を継ぎ、蝦夷島の支配者に向かっていく。

コシャマイン死後もアイヌと和人の争いの起きており、1550年に蠣崎季広(武田信広のひ孫)がアイヌと和睦するまで、両者の緊張関係が続いていく。

まとめ

  この戦いからアイヌの社会にはコシャマインをはじめとする各地のアイヌをまとめることができるリーダーのような存在がいたことがわかる。

コシャマインの戦いは武田信広が蠣崎の家督を継いで、蝦夷島を支配を進めていくきっかけなる出来事である。蠣崎氏は後に松前氏になるため後の松前藩誕生につながるため、とても重要な出来事である。




 

参考文献


松前 景廣
無明舎出版
2013-03