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池田屋事件などで幕末の京都で活躍した新選組。戊辰戦争で鳥羽伏見の戦いから京都を離れ、甲州勝沼、流山、会津、宇都宮、仙台、函館と北へ転戦していきます。甲州勝沼では幹部の永倉新八、原田左之助の離脱、流山では局長の近藤勇が新政府軍に投降(その後、処刑される)、会津では隊が分裂するなど多くの隊士を失います。最後の地となる箱館では土方歳三の戦死を経て、新政府軍に降伏し、新撰組は消滅します。生き残った隊士は謹慎生活を経てそれぞれの道を歩み明治を生きていくことになります。今回は生き抜いた隊士にスポットをあて、彼らのその後を紹介していきます。

 島田魁 〜 多くの新撰組の記録を残す

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 文政11(1828)年、美濃国(岐阜県)に生まれる。文久3(1863)年、かねてから交流のあった永倉新八の紹介により新撰組に入隊。入隊後は諸士設役兼観察に就く。池田屋事件のきっかけを作った長州藩士の古高俊太郎の捕縛に貢献する。池田屋事件以降も、隊士の脱走や内部粛清が行われるなかでも新撰組の残る。油小路の変にも参加。鳥羽伏見の戦い直前に近藤勇が銃撃による襲撃をうけた時には近藤を馬に乗せ脱出させるなど活躍。
    戊辰戦争では鳥羽伏見、甲州勝沼、流山、会津、宇都宮、仙台、箱館と転戦する。箱館戦争での降伏後は名古屋藩のもとで謹慎生活をおくる。謹慎が解けた後、京都に戻り剣術道場を開く。晩年はかつての新撰組の屯所であった西本願寺の夜間警備員として勤務する。明治33(1900)年に死去。

    明治維新後は、新撰組の記録を後世に伝えるため多くの記録を残し現在の新撰組の研究に貢献している。

【関連書籍】



永倉新八〜数少ない幹部の生き残り

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  いわずと知れた新撰組の二番隊組長。沖田総司、斎藤一に匹敵する名手といわれている。近藤、土方らと浪士組を経て新撰組を旗揚げ。池田屋事件では近藤隊として参加。近藤とともに池田屋に突入し沖田、藤堂が倒れる中、近藤とともに死闘を繰り広げた。戊辰戦争では鳥羽伏見、甲州勝沼へと転戦。甲州勝沼の戦いの後に原田左之助とともに離隊。独自に結成した隊で江戸に戻る。維新後は松前藩に帰還(脱藩していた)し、北海道小樽に移住。松前藩医の杉村介庵の娘と結婚し婿養子となる。その後は、樺戸集治監の剣術藩士、東北帝国大学(現在の北海道大学)の剣道部の指導を行ったという。
 元新撰組に剣術指導をしてもらうとか想像しただけでやばい(笑)

 永倉新八も島田魁同様、新撰組の記録を後世に伝えるため貴重な資料を残している。


  

斎藤一(藤田五郎)〜謎の多い貴重な幹部の生き残り

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  こちらも、永倉と同じく数少ない幹部の生き残り。新撰組では三番隊組長をつとめた。池田屋事件では土方隊に所属し死闘を繰り広げていた近藤、永倉を救った。剣士の腕前も相当すごかったこともあり、土方からの信頼も厚かったのか内部粛清においては暗殺やスパイ任務を多くこなしたという。
 一時、伊東甲子太郎が立ち上げた御陵衛士に加わるため新撰組を離脱する。(スパイとして所属していた)油小路の変に至るにあたり重要な役割をこなした。
 戊辰戦争では鳥羽伏見、甲州勝沼、流山、会津と転戦。土方とは会津で別れ会津戦争では会津新撰組を率いて新政府軍と戦い、最後まで抵抗を続けるも降伏する。
 降伏後は謹慎生生活を経て会津再興に伴い下北半島へ移住。その後、明治7(1877)年に東京へ移住し、警視庁に勤務。警視庁時代には西南戦争に参戦し活躍する。
 晩年は東京女子師範学校に勤務。大正4(1915)年に胃潰瘍で亡くなる。

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中島登〜維新後は浜松に移住


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天保9(1838)年に武州多摩郡小田野(東京八王子)に生まれる。安政3(1856)年に天然理心流に入門。新撰組に入隊したのは8年後の元治元(1864)年になる。その後も隊を抜けることもなく戊辰戦争でゃ土方とともに箱館へ転戦する。箱館戦争では最後まで抵抗するも降伏する。降伏後は青森での謹慎生活を経て多摩の帰還した。その後、静岡県浜松に移住し一生を過ごす。質屋や鉄砲店の経営をしていたという。絵が上手かったことも、新撰組に関する絵を多く残している。

田村銀之助〜12歳で入隊

 安政3(1856)年に岩城平藩(福島県)に生まれる。入隊時期は遅く慶応3(1867)年に兄とともに入隊。入隊時12歳と若かったためか近藤と土方の小姓をつとめ、戦いには参加しなかった。戊辰戦争でも戦いには参加しなかったが、土方とともに箱館へ渡る。箱館では榎本武揚の小姓をつとめつつ、訓練の一環でフランス語を学ぶ。箱館総攻撃直前に箱館を脱出した市村鉄之助とは異なり最後まで五稜郭に残った。
 維新後は明治政府に出仕。西南戦争にも参戦した。その後箱館にいた経験を買われたのか開拓士をつとめた。大正13(1924)年に死去。彼の写真は存在しており函館市内の博物館に子孫より寄贈されている。

市村鉄之助〜土方歳三の遺品を持ち帰る。

 安政元(1854)年に美濃大垣藩(岐阜県)に生まれる。慶応3(1867)年に兄とともに入隊。戊辰戦争では鳥羽伏見、甲州勝沼、流山、会津、仙台、箱館と転戦。箱館では土方の小姓をつとめる。箱館総攻撃直前に土方の命により箱館を脱出。新政府軍の目を掻い潜り、土方の親戚の佐藤彦五郎のもとに到着し預かっていた遺品を届ける。現在残っている土方の写真が存在しているのは市村のおかげである。維新後の詳しい足取りは不明だが西南戦争で戦死したといわれている。

山野八十八〜隊中美男五人衆のひとり

 天保12(1841)年に加賀で生まれる。入隊時期は早い方であり文久3(1863)年に島田魁とともに入隊。沖田総司が組長をつとめた一番隊に所属していた。鳥羽伏見〜箱館まで転戦。箱館戦争終結前に隊を離隊。維新後は明治29(1896)年まで京都市内の小学校に用務員として勤務する。明治43(1910)年に死去。池田屋事件〜箱館戦争を経験をしている数少ない生き残りだった。

池田七三郎〜最後の新撰組隊士


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嘉永2(1849)年、上総国山辺郡田間村(千葉県)に生まれる。入隊時期は新撰組晩年期の慶3(1867)年になる。鳥羽伏見、甲州勝沼の戦いには参加。甲州勝沼の戦いでは重傷を負うも一命をとりとめる。復帰後会津戦争に参加。最後まで抵抗するも斎藤一らと降伏する。一年間の謹慎生活を経て放免される。なんとこの方、昭和まで生き続け昭和13(1938)に90歳で死去する。彼の死去により新撰組隊士は全員死んだことになり最後の新撰組隊士だった。

    
 



今回は以上の8人を紹介しましたが、維新後も生きた隊士は記録上ではまだおります。新撰組は池田屋事件のこともあり薩長の中には恨みをもつ者を多くいたため維新後も元新撰組と名乗らなかった隊士も多くいたかと思います。この8人以外の足取りも機会があればまた紹介していきたいと思います。