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2018年から放送される大河ドラマ「西郷どん」ですが、これを契機に再び西郷隆盛に注目が集まるかと思います。日本人なら西郷隆盛といえば幕末の人とすぐに思ういますが、具体的に西郷隆盛ってどういう人物だったのか?と言われると答えられない人も少なくないのではないでしょうか?
 そこで、今回は西郷隆盛のことについてざっくり紹介したいと思います。(完全に西郷どんの流れに乗っかろうと思います笑)
 ※この記事で西郷のことを以降、隆盛とよびます。


 下級武士の家に生まれる

 文政10年12月7日(1828年1月23日)に薩摩藩の下級武士の西郷吉兵衛隆盛の元に7人兄弟の長男として生まれます。幼名は吉之助であり、隆盛と名乗るのは王政復古の大号令後であります。親友の吉井友実が名前の届出を隆盛と誤って届出したことが原因とのことです。(隆盛は父の吉兵衛と同名になります。)父親の吉兵衛は薩摩藩の感情方小頭を勤めました。西郷家の家格は「御小生与」であり身分が下から2番と低く、藩全体からみて下級藩士という位置づけでした。身分の低い下級藩士で子供7人と生活は大変苦しかったと思います。


 ・喧嘩で大怪我をする

 そんな隆盛ですが、13歳の時に友人の怪我が原因で右腕神経を刀で切られてしまうという大怪我を負います。この怪我が原因で吉之助は刀を扱うことが難しくなります。刀ではなく学問で身を立てて行くことを決意します。その後、天保12(1841)年に元服し、名前を吉之助から吉之助隆永と名乗ります。
 弘化元(1844)年、隆盛は、郡奉行の迫田利済の配下として郡方書役助に命じられます。郡方とは農村の農業監督指導であり、書役助は郡方の下につく書記官にあたります。仕事の内容は、年貢などの調査および監督を行う部門の補助役で書類を書く仕事を多い役割でした。隆盛は書役助なので、書記官の中でも下っ端の見習いになります。学問で身を立てることを決意し、学問に励んだ成果が徐々に現れてきます。
 また、このころ藩内で起きたお家騒動(お由羅騒動)により、赤山靭負が切腹します。赤山の介錯を担当したのは親交のあった隆盛の父でした。赤山が切腹した時に身につけていた血染めの肌着を形見として隆盛が受け取ったと言います。これ以後、隆盛は島津斉彬の襲封を願うとともに島津久光への憎悪を覚えたと思います。

 島津斉彬からの抜擢


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   島津斉彬 

 お由羅騒動は嘉永4(1851)年、島津斉彬が藩主に就任することで決着します。隆盛はその翌年の嘉永5(1852)年に、薩摩藩士の伊集院兼寛の姉・須賀を妻にとります。(後に離縁)この頃の隆盛は祖父に加え両親が立て続けに亡くなり、自身が下の兄弟を養っていかなければという状況にあり精神的にもきつい時期であり、加えて嘉永6(1853)年、隆盛は正式に家督を相続しますが、当時の役職はいまだに郡方書役助のままであり経済的にも苦悩の時期だったと思われます。

 安政元(1854)年、隆盛に転機がおとずれます。島津斉彬が参勤交代のため、江戸へ行く際に隆盛を中御小姓・定御供・江戸詰に任命し、江戸へ動向させます。薩摩藩から江戸の薩摩藩邸に勤務することになります。薩摩藩邸では隆盛は「庭方役」を命じられます。「庭方役」とは主君に他の藩の動向などを伝える役割であります。隆盛は斉彬と直接言葉を交わすことができる立場になりました。これ以降、隆盛は他藩と交流を広げ人脈を広げていきます。中でも水戸藩士の藤田東湖や福井藩士の橋本左内からの大きな政治的思想の影響を受けます。

 将軍継嗣問題と斉彬の死


 安政3(1856)年12月、幕府13代将軍の徳川家定は斉彬の養女の篤姫(天璋院)と結婚します。斉彬は篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を14代将軍にしようと画策します。このころの日本はペリー来航を契機にロシアなど様々な国から外圧をうけるなど幕府の力を弱り厳しい情勢にありました。13代将軍の家定は病褥に加え将軍としての器量に疑問視されており、跡取りをもうける可能性も低く早くから将軍継嗣問題が持ち上がっていました。

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  一橋慶喜(後の徳川慶喜)

 一橋慶喜はかねてから「家康の再来」と言われるほど高く評価されるほどの人物でありました。そこで斉彬は慶喜を次期将軍に据えようと考え、篤姫を家定と結婚させます。篤姫が将軍の妻になれば斉彬は将軍の義父になるため、自身の発言力も増し慶喜を将軍にするのに優位に動くと考えたのでしょう。一方、継嗣問題で斉彬をはじめとした「一橋派」に立ちはだかったのが、当時、彦根藩主だった井伊直弼をはじめとした「南紀派」でした。「南紀派」は血筋を重んじ、家定に血筋で近い、紀州徳川家の慶福を次期将軍に支持していました。

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隆盛は、篤姫の嫁入りにあたり近衛家の養子縁組交渉をはじめ、斉彬のもと「一橋派」の手足となり吉野擁立に向けより一層精力的に活動します。この頃、隆盛は京都の清水寺の僧侶・月照と知り合います。熱心な尊王攘夷思想を掲げていた月照は京都の公家とも交流があり、継嗣問題では「一橋派」についており、「南紀派」の井伊直弼からは危険人物と見なされます。

 将軍継嗣問題が決着しない中、安政5(1858)年に家定が重篤となります。そこで譜代大名とはじめとした「南紀派」は井伊直弼を大老に据えます。「一橋派」にとっても思いもよらぬことで、ここで継嗣問題は「南紀派」が一気に優勢にたち同年6月に次期将軍に慶福が指名され、同年7月に家定が亡くなると慶福は家茂に改名し14代将軍に就任します。将軍継嗣問題に負けた斉彬はその直後に病気により急死します。
 
 役割を果たせず、主君を失った隆盛はさぞ絶望したでしょう。ここから隆盛にとって苦難の時間が続きます。

 入水事件と奄美大島潜居 

 主君・斉彬を失った隆盛は絶望のあわり殉死を考えましたが、月照の説得により思いとどまります。斉彬の意思を引き継ぎ再び動き出しますが、そこに大老・井伊直弼による追求の手が伸びてきます。俗にいう「安政の大獄」です。

 安政の大獄で「将軍継嗣問題」に敗れた「一橋派」が処分されていきます。徳川斉昭、松平慶永、山内豊信ら慶喜を支持派は次々と謹慎処分をうけます。さらには、隆盛と親しくしていた橋本左内(福井藩主・松平慶永の側近)も捕縛され処刑されてしまいます。すぐそこまで追求の手が伸びてきた隆盛は月照と薩摩に逃げることになります。

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   月照 肖像画
 
 近衛家から月照の保護を依頼された薩摩藩でしたが、幕府から追われていた月照の扱いに困ることになります。そこで薩摩藩は隆盛に対し日向国(現在の宮崎県)への追放とともに「永送り」を命じます。「永送り」とは藩の境で斬り捨てることを意味します。しかし、隆盛は月照を斬り捨てることができず、隆盛は移送の船から月照とともに身を投げます。同乗者の救助により2人はすぐに救い上げられ隆盛は奇跡的に生還しますが、月照は死亡してしまいます。
 薩摩藩は、隆盛の月照の2人を死んだものとして事実を隠蔽します。月照は事実死亡したものの、将軍継嗣問題の「一橋派」の残党である隆盛は幕府から危険人物とみられていることもあり、藩は隆盛の保護ため、奄美大島で潜居することを命じます。

 奄美大島での日々 

 安政6(1859)年1月より隆盛は奄美大島に上陸に潜居生活が始まる。この時、西郷隆盛と知れないよう名前を「菊池源吾」と改名する。藩からは扶持の米を与えられてはいたが、奄美大島での生活を始めた当初は島流しのような扱いを受けていたという。そんな隆盛を救ったのが同じ薩摩藩士の重野安繹である。重野は同僚のお金の使い込みより奄美大島に遠島処分となっており、隆盛と再会することになる。
 その後、隆盛は薩摩にいる大久保利通、有村俊斎、吉井友実といった同志たちと書簡でのやりとりをはじめ、情報収集をはじめます。
 島に来て当初は孤独に感じていた隆盛でしたが島の有力者の龍家出身の娘・とま(後に愛加那と名乗る)を島妻に迎え、一男一女をもうけます。